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東京地方裁判所 昭和61年(ワ)2593号 判決

主文

一  被告は、原告林田耕二に対し金一五万七二五〇円及びこれに対する昭和六一年三月二三日から支払済みまで年五分の割合による金員を、原告林田譲二に対し金九万二六〇〇円及びこれに対する右同日から支払済みまで右と同じ割合による金員をそれぞれ支払え。

二  原告らのその余の各請求を棄却する。

三  訴訟費用はこれを五分し、その四を原告らの、その余を被告の負担とする。

四  この判決は第一項に限り仮りに執行することができる。

理由

【事 実】

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は、原告林田耕二に対し、金一五六万二四七〇円及びこれに対する昭和六一年三月二三日から支払済みまで年五分の割合による金員を、原告林田譲二に対し金一六九万二五〇〇円及びこれに対する右同日から支払済みまで右と同じ割合による金員をそれぞれ支払え。

2  訴訟費用は、被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告らの請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は、原告らの負担とする。

第二  当事者の主張

一  請求の原因

1  当事者

原告林田譲二(以下「原告譲二」という。)は、長崎市内において寿司店を経営する者であり、原告林田耕二(以下「原告耕二」という。)は、その次男で青山学院大学の学生である。

被告は、その肩書地において丸茂病院の名称で総合病院を開設している医師である。

2  事実の経過

(一) 原告耕二は、昭和六〇年五月一日午後二時ころ急に上腹部に激痛を感じ、同日午後九時ころ友人の訴外酒井英之(以下「訴外酒井」という。)に付き添われて被告の経営する病院(以下「被告病院」という。)に赴き、被告が当直医として雇用する日下医師の問診および触診を受け、急性腹症と診断されて痛み止めの注射を受け、帰宅した。

(二) ところが、当夜はなお激痛が続いたので原告耕二は、翌二日朝被告病院に再来し、午前一〇時三〇分ころから被告の雇用する犬塚医師の診察及び諸検査を受けた。

原告耕二の症状は、白血球数が一万二〇〇〇であり、下腹部に強い痛みが認められたため、同医師は、原告耕二の病名を急性腹症と診断したうえ、同人を入院させることにした。

しかし、同医師は、翌日の午前九時ころまで臨床検査及び経過観察のための措置を全くしなかつた。

(三) 被告が当直医として雇用する二宮医師は、同月三日午前九時ころ被告病院に出勤し、原告耕二のそれまでの診療経過を知るべくカルテ等に目を通したが格別診察をしないでいたところ、同日午後一時ころ、原告耕二の腹部激痛の訴えを聞いた訴外酒井から原告耕二を診察して欲しい旨の連絡を受けた。

同医師は、看護婦に対し血液検査をするように命じ、自らは原告耕二のカルテをチェックしてから同人を診察した。この時の原告耕二の症状は、下腹部全体に激痛がみられ、白血球数は一万四五〇〇であつたので、同医師は、原告耕二の病名を急性腹膜炎と診断し、同日午後二時三〇分ころ、丸茂病院が緊急措置の必要な患者を転送するために予め提携関係を結んでいた日本医科大学付属病院救命救急センター(以下「救急センター」という。)に転送した。

(四) 同日午後四時四五分ころ、救急センターにおいて原告耕二の開腹手術が行われた結果、原告耕二は、穿孔性虫垂炎が進行して腹膜炎を起こしたことが判明した。

(五) 右手術の後、原告耕二の激痛は徐々に治まり、五月一〇日には病室の関係から再び被告の病院に移され、五月一五日に被告の病院を退院した。

(六) しかし、原告耕二は退院後腹部の異常を感じ、同月一七日、二〇日、二九日の三回にわたつて被告病院に通院していたところ、同月三〇日、術後腸閉塞と診断されて再び入院し、救急センターに転送され、同年六月三日に腸閉塞の手術を受けた。

(七) その後、原告耕二は、入院していた救急センターの病室の関係から同月一三日に板橋区内の木村病院に転送され、同月二〇日に同病院を退院し、同年八月過ぎまで同病院に通院した。

3  被告の責任

(一) 原告耕二は、汎発性腹膜炎及び術後腸閉塞により手術を余儀なくされたが、右汎発性腹膜炎は虫垂炎が進行したものであり、また、術後腸閉塞は右虫垂炎の段階で手術していれば生じなかつたものであるから右腹膜炎手術に起因するものである。

(二) 日下医師の過失

原告耕二を最初に診察した日下医師は、原告耕二を急性腹症と診断したのであるから(急性腹症と診断しなかつたとしたらそのこと自体が過失である。)、その後も同原告について正確な病名を確定診断して速やかに手術の要否を決定するべく、レントゲン検査、血液検査及びその他の臨床検査並びに腹痛の程度や食事の回数、時間、内容などについての問診をし、かつ、その後の経過を慎重に観察しなければならない注意義務があつたというべきであるところ、右義務を怠り、原告耕二がそのころすでに虫垂炎に罹患していたことを診断できなかつた。仮に、同医師が右義務を尽くしていたならば、虫垂炎の段階で手術をすることができたものであり、腹膜炎及びこれを原因とする腸閉塞という結果は生じなかつたのである。

(三) 犬塚医師の過失

原告耕二を五月二日午前中に診察した犬塚医師は、原告耕二が前日の上腹部の痛みと異なり下腹部の痛みを訴えており、かつ、白血球数が一万二〇〇〇と増加(通常値は七〇〇〇~八〇〇〇)し、炎症症状を呈しているのを認めたのであるから、急性の腹部疾患には虫垂炎が多く、しかも同原告が虫垂炎にみられることの多い上腹部から下腹部への痛みの移行を訴えたことを合わせ考えるならば、同医師は、右の諸症状を認めた時点で原告耕二の病名を虫垂炎であると診断すべきであり、またその後速やかに開腹手術を行うべきであつた。

また、同医師は、原告耕二を診察の結果急性腹症であると診断したのであるから、前記日下医師同様、同原告について正確な病名を確定診断して速やかに手術の要否を決定するなど適切な処置をするべく、入院した同原告に対し白血球数の検査などの臨床検査を繰り返し行うなどして、その後の経過を慎重に観察しなければならない注意義務があつたというべきであるところ、右の注意義務を怠り、同日午後一時に回診しただけで、その後は看護婦に対し予め注射などの指示をしていたにとどまり、同日午後八時及び翌三日午前六時に原告耕二から下腹部痛の訴えがあつた際にも、自ら十分な経過観察をしなかつた。仮りに、右時点において同医師が原告耕二の診察を十分にしていれば、前記(二)の症状を踏まえて同原告がそのころ虫垂炎に罹患していることを診断し得、かつ、速やかに開腹手術を行つて、同原告の症状が腹膜炎にまで進行するのを未然に防止することができたものである。

(四) 二宮医師の過失

同月三日午前九時に被告病院に出勤した二宮医師は、原告耕二のそれまでのカルテ、臨床検査の結果及び看護記録などを観て、同人が急性腹症と診断され、正確な病名を確定診断されないまま、最初の腹痛のあつた時から四八時間近くが経過しようとしているのを知つたところ、一般に虫垂炎においては発病後四八時間以内に開腹手術をしないと危険であるといわれているのであるから、同医師は、原告耕二の症状及び諸検査の結果(特に白血球数が同月二日午前一〇時ころ一万二〇〇〇と増加していたこと)を踏まえて同人が虫垂炎に罹患している可能性を考慮し、自ら診療行為にあたり、臨床検査を行うなどして右確定診断のための処置をとつて緊急手術の要否を速やかに判断しなければならない注意義務があつたのに、漫然これを怠つた。

仮りに、同日二宮医師が出勤後直ちに原告耕二を診察し、あるいは同原告が下腹部の強度の痛みを訴えた同日午前一〇時三〇分ころ、同医師が自ら同原告を診察していれば、そのころすでに同原告が虫垂炎に罹患していたこと及び開腹手術をしなければならない症状を呈していたことを確認し得たはずであり、そうすれば、右虫垂炎が腹膜炎にまで進行することもなく、また腹膜炎を原因とする腸閉塞という結果も生じなかつたものである。

(五) 日下、犬塚、二宮の各医師の本件診療行為は、被告の病院経営という事業の執行につきなされたものである。

4  損害

原告耕二の損害は一五六万〇九七〇円であり、同譲二の損害は一六九万二五〇〇円であるが、その内訳は次のとおりである。

(一) 原告耕二

(1) 治療費 五一万四九七〇円

(2) 入院雑費 一万四〇〇〇円

右(1)及び(2)は、原告耕二が同年五月一日若しくは二日の段階で被告病院において開腹手術を受けていれば、通常の虫垂炎として一週間の入院治療で済んだところ、被告病院の各医師の前記注意義務違反により腹膜炎及び腸閉塞の手術並びに各々につき入院治療をせざるを得なくなつたため支出した費用である。

(3) 付添看護費 三万二〇〇〇円

原告耕二の母訴外林田年子(以下「訴外年子」という。)は、同年五月八日から同月一五日までの八日間原告耕二に付き添い看護したが、右付添看護費としては一日あたり四〇〇〇円が相当である。

(4) 慰謝料 一〇〇万円

本件で原告耕二の被つた精神的損害を慰謝するに足りる金員としては一〇〇万円が相当である。

(二) 原告譲二

(1) 休業補償費等 一二九万七〇〇〇円

原告譲二は、同耕二の二回にわたる手術に付き添うため上京した同年五月三日から同月一二日までの一〇日間及び同月三〇日から同年六月三〇日までのうちの一一日間の合計二一日間自己の経営する寿司店の休業を余儀なくされ、その間に得ることができたであろう七〇万円の純収益を失つた。また、同原告は、寿司店従業員に対して右休業期間中の休業補償費として一四万七〇〇〇円(一日当たり七〇〇〇円)を、さらに、原告耕二の七五日間にわたる療養看護のため右寿司店の従業員でもあつた訴外年子が上京したので、同人の代りに雇つたアルバイトの従業員に対する賃金四五万円(一日当たり六〇〇〇円)を、それぞれ支払わざるを得なかつた。

(2) 交通費 二九万五五〇〇円

原告譲二は、同耕二の実兄である訴外林田桂智とともに原告耕二の二回にわたる手術のため上京し、また、上京後も家族のために右同額の交通費を支出した。

(3) 通信費 一〇万円

原告譲二は、同耕二の手術及び入院のため、同人及び上京した訴外年子と頻繁に電話連絡をとらざるを得なかつたので、右同額の通信費を支出した。

5  よつて、不法行為に基づく損害賠償金として、被告に対し、原告林田耕二は一五六万二四七〇円及びこれに対する弁済期の経過後である昭和六一年三月二三日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを、原告林田譲二は一六九万二五〇〇円及びこれに対する右同日から支払済みまで右と同じ割合による遅延損害金の支払いをそれぞれ求める。

二  請求原因に対する認否及び被告の主張

1  請求原因1の事実は認める。

2(一)  同2の(一)の事実中、原告耕二が昭和六〇年五月一日午後二時ころ、上腹部に激痛を感じた事実は知らず、日下医師が同人を急性腹症と診断したとの事実は否認し、その余の事実を認める。

(二)  同2の(二)の事実中、犬塚医師が臨床検査及び経過観察を怠つたとの点を否認し、その余の事実は認める。

(三)  同2の(三)の前段の事実中、同月三日午後一時ころの原告耕二の症状は認め、その余の事実は否認する。

なお、二宮医師は、同日午前一〇時二五分ころ、原告耕二の下腹部痛の訴えにより鎮静剤の注射をして同人のその後の経過を観察していた。また、同医師は、同日午後〇時三〇分ころ、花谷看護婦から連絡を受けて原告耕二の診察に赴いたのであつて、訴外酒井が同医師に対し、原告耕二の診察を依頼した事実はない。

同2の(三)、後段の事実は認める。

(四)  同2の(四)の事実は認める。

(五)  同2の(五)の事実は認める。

(六)  同2の(六)の事実中、原告耕二が同月三〇日に被告病院に来院し、術後腸閉塞の診断を受けて入院し、その後救急センターに転送されて同手術が行われたことは認めるが、その余の事実は否認する。

原告耕二は、同月一七日、二〇日、二四日、二七日の四回にわたり被告病院に通院する間、何ら腹部に異常を訴えず、術後の回復は極めて順調であつた。

(七)  同2の(七)の事実は知らない。

3(一)  同3の(一)の事実は否認する。

原告耕二の術後腸閉塞と第一回目の手術との間に因果関係は存しない。すなわち、原告耕二は、第一回目の手術をして、全抜糸をした後は、食事も常食であり、何ら異常もなく退院しており、同月一七日から二七日までの四回にわたる通院の際も、何らの主訴もなかつた。また、開腹手術をした場合に腸の癒着が生じやすいとしても、腹腔内癒着の全てが腸閉塞の原因となるものではない。

(二)  同3の(二)の事実は否認する。

同医師に注意義務違反はない。

同年五月一日午後一〇時ころ、日下医師が原告耕二を問診した際、同人は当日昼ころから上腹部に痛みがあり、一回嘔吐したこと、職業はボクシング練習生であり、食事は一日一回くらいという不規則な生活をしていることを述べた。また、同医師の触診により、上腹部に圧痛が認められたがその外の箇所には何ら痛みは認められなかつた。そこで、同医師は虫垂炎の典型的な特徴である右側腸骨窩部の限局された圧痛が認められなかつたため鎮痛剤であるブスコパンを一アンプル筋肉注射し、ブスコパン6錠、ビオフェルミン・コランチル等の投薬措置を施したうえ、同人に対し、さらに様子をみて翌日再来するよう告げたのである。同医師はこの時点で同人の病名につき何ら診断を下していない。

以上の次第であるから、同医師の診察行為及び措置は、医師としての注意義務を十分に尽くしているものであつて同医師に何ら過失は認められない。

(三)  同3の(三)の事実は否認する。

原告らは白血球の増加を虫垂炎診断の有力な根拠としているが、白血球の増加を伴う腹部疾患は虫垂炎の他にも多数あり、右は虫垂炎と診断するための一つの資料にすぎないものである。また、虫垂炎に罹患した場合の症状としては右腸骨窩部に限局される圧痛がみられるのが通常であるが、同人には右症状がみられず、そのため同医師は、正確な病名を診断すべく、同人のその後の経過を観察することとしたものであり、右は一般的にとられるべき診療行為である。したがつて、同医師がはじめて原告耕二を診察し、検査結果を把握した際、同人を虫垂炎と診断しなかつたことをもつて過失があるということはできない。

また、原告らは、原告耕二について、虫垂炎の可能性があると診断した場合は速やかに開腹手術をすべきである旨主張するが、現在の医学界の趨勢としては、発症後四八時間前後抗生物質による保存的療法を行い、病変が進行しない場合には手術を回避すべきであり、腹膜刺激症状が顕著となるなどやむをえないと判断される場合にのみ手術を行うという方法がとられるのが一般であり、本件において、同医師が開腹手術をすべきであつたとする主張は失当である。

さらに、原告らは、同医師が経過観察を怠つた旨主張するが、そのような事実はない。同医師は、同月二日午前一〇時三〇分ころ、被告病院に再来した原告耕二に対して胸部及び腹部のレントゲン検査、末梢の血液検査、生化学検査及び尿検査を行つた。また、同人の入院後も、看護婦に対し、ラクテック五〇〇ミリリットル、ビタメジン一バイアル(一V)、ビタミンC五〇〇ミリグラム、ビタミンB2二〇ミリグラム、ブスコパン一アンプルを加えたものを一時間に一五〇ミリリットルのスピードによる点滴、次にラクテック五〇〇ミリリットル、ビタミンC三〇〇ミリグラムを混合したものを一時間一〇〇ミリリットルのスピードで点滴、次にラクテック五〇〇ミリリットルを一時間一〇〇ミリリットルのスピードによる点滴、さらに抗生剤としてケフリン二グラムを一日二回投与、禁食、疼痛時にソセゴン一五ミリグラム、アタピイ二五ミリグラムの注射をするよう指示した。同医師はかかる指示をしながら経過を観察していたところ、同月三日午前三時の巡診では原告耕二は安眠しており、同六時の巡診時には同人は下腹部の圧痛を訴えただけで嘔吐の気配もなく、何らの著変も認められなかつた。同医師はかように十分な経過観察、臨床検査を実施しており、したがつて、同医師には診療上の義務違反は全くない。なお、原告らは、同医師が白血球検査を頻繁に行うべきであつた旨主張するが、右は一日一回行えば十分目的を達するものである。

(四)  同3の(四)の事実は否認する。

二宮医師は、同月三日午前一〇時二五分ころ、原告耕二の下腹部痛の訴えに対し、鎮痛剤の注射をしてその後の経過を観察していたところ、同日午後一時一五分ころ、同人の下腹部全般に腹膜刺激症状があらわれたので同人を急性腹膜炎と診断して緊急手術の準備を速やかに行い、同人を救急センターに転送したものであり、前記のとおり虫垂炎の手術適応の時期は腹膜刺激症状が明瞭になつた段階であるというべきであるから、同医師の右診療行為には何らの過失もない。

(五)  同3の(五)の事実は認める。

4  同4の事実は全て否認する。

第三  証拠《略》

【理 由】

一  原告耕二の症状と各担当医師の診療経過

《証拠略》を総合すれば、以下の事実を認めることができる。

1  原告耕二は、昭和三六年九月一八日、長崎県で生れ、地元の高校を卒業後、同五六年四月に立教大学に入学したが、同大学を卒業後の同六〇年四月に青山学院大学第二部(夜間部)に編入学し、右のかたわら運送関係のアルバイトをしていた。

2  原告耕二は同六〇年五月一日、右アルバイトを終えた午後一時ころ昼食代りにソフトクリームを食べたが、同二時ころ空腹時に覚えることのあるような痛みを感じたため、帰宅途中弁当を買つてアパートで食べた。しかし、右の痛みが治まらず、しばらく横になつていたが、そのうちに吐き気をもよおし、自分で口に指を入れて一回嘔吐した。同原告はその後午後四時四五分開始の夜間部の授業に出席するため無理を押して自宅(練馬区内のアパート)を出て大学(渋谷区内)に登校し、授業中痛みが増して脂汗が出たが何とか持ちこたえ、同日午後七時二〇分まで授業を受け、同八時三〇分ころ帰宅した。その間全く食欲はなく、帰宅して再び横になつてからも痛みは増すばかりであつたので、同人の郷里の友人で近くに住む訴外酒井に電話をし、同人を呼んだ。

3  その後、原告耕二は右の痛みに耐えかねて訴外酒井に付き添われて自宅から徒歩一〇分ほどの距離にある被告病院に歩いて行き、同日午後一〇時ころ同病院に当直医として勤務していた日下医師の診察を受けた。同医師が原告耕二を触診したところ、上腹部の圧痛、腸雑音が認められたが、腹壁は柔かく平坦で筋性防御及び反跳痛はなかつた。また、同医師は、問診によつて、同原告がボクシング部に属していたことからその試合前に減量し、食事は一日一回ぐらいという不規則なものであること、少年時に十二指腸潰瘍で通院したことがあつたが治癒したこと、その他当日の腹痛の態様、嘔吐の状況などの症状を把握した。右の結果、同医師は、原告耕二に炎症所見がないと判断し、病名を確定診断しないままなお様子を観るため鎮痙剤であるブスコパン一アンプルを筋肉注射して翌朝また来院するように指示した。

4  原告耕二は、右診察後被告病院のソファでしばらく休んでから帰宅し、床についたが、その後は痛みも薄らいだため、翌二日午前三時ころ訴外酒井を帰宅させ、自分は眠つた。ところが、原告耕二は、翌朝再び腹部に前日同様の痛みを感じて目を覚まし、再び訴外酒井に電話をして同人に来てもらい、同日午前九時前ころ同人に付き添われて被告病院に行つた。同病院においては、勤務医の犬塚医師が原告耕二の診察にあたつたところ、同原告の症状としては筋性防御(壁側腹膜の刺激による無意識の反射性の腹膜緊張)は認められなかつたが、下腹部中央の自発痛、圧痛が認められた。また、三日前から便秘が続き、吐き気、嘔吐の症状が認められ、体温は三六・四度であつた。同医師は、同原告に対し、さらに尿検査、生化学検査、X線検査、血液検査を実施したところ、白血球が一万二〇〇〇と増加しており(通常は六〇〇〇から八〇〇〇くらい)、腹痛も強度であつたため、病名を確定診断しないまま急性腹症と診断し、場合によつては手術をする旨告げて同人を入院させた。

5  同医師は、原告耕二の入院にあたり、看護婦に対して「各種ビタミン剤、鎮痛剤の混合点滴、抗生剤ケフリンを一日二回投与、禁食、疼痛時には鎮痛剤ソセゴン、アタラックスPを一日二回まで投与」などの指示をし、同月四日、五日も同様の処置をとるよう指示した。原告耕二は、同月二日午前一一時ころ独力で歩いて入院したが、同日午後〇時に前記点滴を受け、同一時には検温及び同医師の回診を受けた。また、同原告は、同日午後二時に腹部の疼痛を訴えたところ、同医師の事前の右の指示に基づき看護婦から鎮痛剤ソセゴン、アタラックスPの投与を受けた。その際、同原告に吐き気は認められなかつたが、顔色は不良であつた。その後同日午後八時まで原告耕二は疼痛を訴えることもなく、看護婦の巡視及び回診もなく、午後八時の看護婦の巡視の際には、下腹部の軽度の痛み及び軽度の吐き気の持続がみられたが、顔色も普通であつた。翌三日の午前〇時の巡視の時は、同原告は入眠中であり、同午前六時の検温まで同原告からのナースコールはなく、右検温時には、下腹部の圧痛を訴えたが、吐き気はなかつた(《証拠判断略》)。

6  原告耕二は、五月三日午前一〇時二五分ころ、下腹部の疼痛を訴え、看護婦が医師から指示されていたソセゴン、アタラックスPを筋肉注射したが、この時医師による診察はなかつた(《証拠判断略》)。右の際、原告耕二には吐き気、嘔吐は認められず、顔色も普通であつたが、口唇乾燥が認められた。同日午後〇時三〇分ころ、同原告は再び下腹部痛を訴え、看護婦から同日の当直医である二宮医師に対し、その旨伝えられたが(《証拠判断略》)、同医師はもう少し様子をみるよう看護婦に指示するとともに、自らは原告耕二のカルテをチェックし、午後一時に同人を診察した。同原告の症状としては、腹痛が緩和せず、下腹部全体に自制不可能の激痛の訴えがあり、顔面蒼白、冷汗が認められ、下腹部に筋性防御、圧痛、ブルンベルグ症状(反踏痛・腹壁を圧迫し、急に圧迫を離したときに感じる痛み)が認められた。また、X線撮影の結果では小腸ガス像が認められ、白血球数も一万四五〇〇であり、疼痛が強いため、同医師はプレタジンを静脈注射した。同医師は、午後一時一五分に原告耕二を再び触診し、ブルンベルグ症状が強くなつていたことから腹膜炎及びイレウスの疑いがあると考え、被告病院が緊急措置を必要とする患者を転送するべく提携関係を結んでいる救急センターの安田医師と連絡をとり、協議した結果、救急センターに同原告を転送して手術を受けさせることとした。救急センターで右安田医師が原告耕二を診察したところ、筋性防御は認められなかつたが、下腹部中心に圧痛及びブルンベルグ症状が認められ、腹膜刺激症状が顕著であつたため、同人を虫垂炎、腹膜炎と診断し、同日午後四時四〇分ころから救急センターにおいて開腹手術が行われた。手術診断は穿孔性虫垂炎による腹膜炎(急性壊疽性虫垂炎)であつて、開腹の結果、腹部に褐色の膿性腹水が多量に貯留しており、ダグラス窩虫垂周囲に膿があり、虫垂が著明な炎症を起こし、回腸の間にもぐり込んでいて周囲に膿があることが認められた。手術は、正行性虫垂切除術及び腹膜内洗浄の術式で行われた。

7  原告耕二は、右手術後順調に回復し、病室の関係から再び被告病院に転院し、その後も全身状態及び食欲も良好であつて、予定どおり五月一五日に退院した。同原告は、退院後、同月二〇日、二四日、二七日と術後の経過をみるため被告病院に通院したが、いずれもとくに異常は認められず、術後経過は順調と認められた(ただ、同月二七日にはGPT値が六四であり、次回来院時再検査とされた。)。しかし、同五月三〇日、原告耕二は、午前二時ころから腹部に激痛を感じ、午前四時ころ、術後の世話をするために同居していた母を起こして付き添つてもらい、午前五時ころ被告病院に行き、当直医であつた日下医師の診察を受けた。同原告の症状は、筋性防御、反跳痛、腸雑音はないが、上腹部に圧痛があり、体温は三五・六度であつた。同原告は同医師からブスコパン一アンプルを筋肉注射されたが、その後同日午前九時三〇分ころ、上腹部に自発痛、圧痛、筋性防御がみられ午前一〇時三〇分ころのX線検査の結果明らかなレイウス像が認められたため、同日午前一二時に救急車で救急センターに転送され、同年六月三日、同所で腸閉塞による手術を受けた。同原告は、その後、救急センターから板橋区内の木村病院に転送され、同月二〇日に退院し、九月ころまで同病院に通院した。

以上の事実が認められる。

右事実に対し、原告らは、日下医師が同年五月二日初診の際、原告耕二を急性腹症と診断した旨主張し、乙第六号証の一及び甲第一号証の記載も右事実に副うように見えるが、乙第六号証の傷病名の文字は、同年五月三日の傷病名記載の汎発性腹膜炎の記載と一つの括弧で括られていること、甲第一号証は後に作成されたものであつて、五月一日が初診で二日に急性腹症との診断がなされた場合にも同号証のような記載をすることが十分考えられることからすれば、右の主張を認めるに足りないというべきである。

二  知見

《証拠略》を総合すれば、以下のとおり認められる。

1  急性腹症

急性腹症とは、急激に発症する腹痛を主訴とし、短時間のうちに緊急手術の適否の判断を要するような急激な腹部急性疾患の総称であつて、〈1〉緊急手術を要するもの、〈2〉保存的療法により改善しないとき準緊急手術を要するもの、〈3〉保存的療法を原則とし、病状改善後必要であれば待期的手術を行うもの、〈4〉手術は無意味か有害で保存的療法を要するもの、に分類されるが、本件に関係する疾患のうち、消化管穿孔性腹膜炎及び早期の急性虫垂炎(カタル性虫垂炎を除く。)は〈1〉に、中間期(腫瘤形成期)急性虫垂炎及び単純性イレウスは病状により〈1〉若しくは〈2〉に含まれる。

急性腹症においては、患者の状態を迅速かつ的確に把握し、そのうえで診断と治療(とくに初期治療)を同時に進めていくことが肝要であり、診断は、疼痛の程度・部位・性質、筋性防御、圧痛の有無・部位・程度、嘔吐・下痢・発熱の有無・程度、全身症状などのほか適宜レントゲン撮影・白血球数・血沈などの検査をして総合的になされるが、常に発症後の経過時間を考慮しなければならない。

なお、各施設での急性腹症の原疾患別頻度は、常に虫垂炎が一位であつて五〇パーセントを超えている。

2  虫垂炎

(一) 虫垂炎とは、何らかの原因により虫垂粘膜面に変化が生じ、二次的に細菌感染が生じて炎症が進行して起こる疾患をいう。

(二) 虫垂炎のうち、急性虫垂炎は、蜂窩性虫垂炎(化膿性虫垂炎)及び壊疽性虫垂炎からなる定型的虫垂炎とカタル性虫垂炎(単純性虫垂炎)に分類でき、定型的虫垂炎のうち穿孔が起こつた場合を臨床的便宜から穿孔性虫垂炎と呼ぶ。急性虫垂炎の症状としては次のようなものが挙げられる。まず、自覚症状としては、初期には上腹部、胃部、臍部、腹部全般の痛みを訴え、数時間後には、右下腹部に限局した痛みを訴えることが多いが(下腹部中央に痛みが移行することもある。)、始めから右下腹部痛を訴えるときもあり、統計上は、前者は定型的虫垂炎、後者はカタル性虫垂炎である場合が多い。便秘、悪心、嘔吐を伴うことが多いが、初期嘔吐の後は腹膜に炎症が及んだ場合に嘔吐が起こることが多く、定型的虫垂炎では出現率が高い。便秘については、定型的虫垂炎では発症率が高い。局所所見では、右下腹部の圧痛が重要な所見であり、マックバーネー、ランツ、クンメルと呼ばれる各点に限局した圧痛がみられることが多いが、虫垂が盲腸の背部や小骨盤内その他通常と異なる位置にあるときは、右圧痛が弱いか全くないこともある。また、筋性防御(デファンス・壁側腹膜の刺激による無意識の反射性の腹膜緊張)及びブルンベルグ症状(反踏痛、腹壁を圧迫し、急に圧迫を解除したときに感じる痛み)は腹膜刺激症状の存在する証明となり、しかも両者は虫垂炎の重症度とほぼ比例するので、虫垂炎の診断上極めて重要な症状である。ただ、筋性防御につき虫垂の位置によつて出現を見ない場合のあることは圧痛のところで述べたと同様である。その他にローゼンシュタイン症状、ロプシング症状と呼ばれる各症状も見られることがあるが、その出現率は低い。全身症状としては、三八度以下の発熱を伴うことが多く、虫垂炎の重症度とある程度の比例関係が認められるが、定型的虫垂炎においても正常値であることが稀ではない。白血球数は、定型的虫垂炎においては比較的早期から増加が見られることが多く、重症度との有意な相関関係が認められるので、重要な所見である。

(三) 急性虫垂炎の手術適応

かつては急性虫垂炎の診断がつき次第早期手術をすべきであるとされていたが、医学の進歩に伴い、抗生物質療法も進歩したこと、たとえ虫垂炎が進行し、腹膜炎を発症させても安全な手術が可能となつたこと、カタル性虫垂炎など内科的に治療することが可能であつたのに早期手術をして術後イレウスなどの合併症を惹起したことへの反省などから、定型的虫垂炎と確定診断されたものについては格別、少しでも虫垂炎以外の病名の疑診があつた場合には経過を観察し、確定診断し得る症状が現れるまで経過を観察すべきである。そして、右確定診断のための所見として最も重要な症状は、前記筋性防御、ブルンベルグ症状などの腹膜刺激症状であるが、その他の所見や、定型的虫垂炎に著名な症状(白血球の増加は腸間膜リンパ節炎、回腸末端炎など手術を必要としない疾患との鑑別上有力な所見である。)を総合的に判断すべきものである。

3  急性腹膜炎

(一) 穿孔性腹膜炎とは、胃、十二指腸潰瘍、急性虫垂炎の穿孔等により内容が漏出し、そのため腹膜の刺激及び感染が惹起されるもので、穿孔と同時に激烈な腹痛を訴え、嘔吐を伴うことが多い。腹痛、圧痛は強度となり、筋性防御は板状硬になるが、ともに穿孔部位から腹部全体に拡大傾向を示すことが多く、この場合には緊急開腹手術が必要となる。

(二) 汎発性腹膜炎とは、炎症がさらに進んで全腹腔に及んだ状態をいい、激烈な腹痛を訴え、強度の圧痛、筋性防御が腹部全体に認められ、嘔吐が頻発し、排ガスは停止する等の症状を示す。本症は、可及的早期に開腹手術を行い、原因疾患の処理と排膿を行う必要がある。

4  癒着性イレウス(腸閉塞)

癒着性イレウスとは、開腹術ないし腹腔内炎症の既往があり、これらの結果腹膜に生じた損傷部位に線維素性炎症物質が産生され、腹腔内諸臓器又は組織間に癒着を生じ、腸が屈曲して腸の内容物の通過が妨げられて発症する。その自覚症状としては、腹部膨満、腹痛、吐き気、嘔吐、排ガス停止等が挙げられ、進行すれば白血球増加、発熱も認められる。

三  被告の責任

1  前記認定事実によれば、原告耕二は、開腹手術の結果穿孔性虫垂炎による腹膜炎に罹患していたことが判明したところ、右穿孔性虫垂炎は定型的虫垂炎に穿孔が起こつた場合をいうのであるから、仮りに虫垂穿孔以前に手術がなされていたとすれば腹膜炎は発症していなかつたものと認められる。

2  次に、右腹膜炎が惹起されたことによつて術後イレウスが生じたといえるかについて検討するに、鑑定の結果によれば、癒着の原因であるフィブリンの腹腔内分析量は穿孔性腹膜炎を併発したものに多く、また本件のように閉腹時に遺残腹腔内膿瘍予防のため三本の排液管が挿入されたような症例では、穿孔を伴わない虫垂炎手術後の場合よりも術後イレウスの発生率が高くなる旨主張されているが、具体的にどの程度高率となるのかが明らかでなく、また右が医学的に証明されているわけではないこと、同症は体質素因に関係するとの意見が強いこと、《証拠略》によれば本症が虫垂炎などの開腹手術後に発生することが多いと一般的に述べられているにとどまることなどからすれば、右腹膜炎と術後イレウス発症との間に法律上の因果関係があるものとは認められない。

3  日下医師の過失

原告らは、まず日下医師が原告耕二を急性腹症と診断したことを前提とした同医師の過失を主張するところ、同医師が右診断を下した事実を認めるに足りる証拠がないことは前述のとおりである。また鑑定の結果によれば、同医師の診療時における原告耕二の所見は前記認定のとおり上腹部に圧痛及び腸雑音はあるものの、腹壁は柔かく平坦で筋性防御も反跳痛もなく、他の異常所見はなく、急性胃炎又は胃けいれんを疑い得る状態でもあつたのであるから、この時点において同医師が原告耕二を虫垂炎であると確定診断することはできないというべきであり、かつ、深夜、腹痛嘔吐を主訴に来院した二三才の一見健康そうな男性患者に対する措置として同医師が行つた鎮痙剤(ブスコパン)の筋肉注射、一日分の投薬、翌日来院するようにとの指示は医師として適切な措置と評価し得るのであつて、同医師が原告ら主張のような措置を講じなかつたことをもつて過失があるということはできない。なお、右は同医師が原告耕二の病名を急性腹症と診断したか否かに影響されるものではないことはいうまでもない。

4  犬塚医師及び二宮医師の過失

(一) 原告らは、犬塚医師が原告耕二を診察し、血液検査などの結果を見た時点で、同原告の病名を虫垂炎であると判断すべきであつた旨主張するので、この点について判断する。

前記知見によれば、虫垂炎の診断はあくまでも腹部所見を中心にして他の症状を合わせ考慮して総合的になすべきものと解せられるところ、前記認定事実によれば昭和六〇年五月二日午前九時ころ同医師が原告耕二を診察した際、同原告には虫垂炎診断において極めて重要な所見である右下腹部に限局された圧痛、筋性防御が認められなかつたのであるから、たとえ、他に虫垂炎を疑うべき症状が一部認められたとしても、その所見により直ちに虫垂炎であると確定診断することは不可能であつたといわざるを得ない。

(二) しかしながら、前記認定事実中には、原告耕二の腹部疼痛が上腹部に始まり、時の経過に伴い下腹部へ移行したこと(《証拠略》によれば下腹部中央の痛みも虫垂炎の症状とされている。)、入院の際の同原告の腹痛の程度は強度であつたこと、同原告の痛みは前日の五月一日昼ころから始まり、深夜被告病院に来院し鎮痙剤を投与されたにもかかわらず、翌朝痛みで目を覚ます程の強いものであつたこと(《証拠略》には、右は激痛の範疇に入り、それが六時間以上続くときは手術も考慮する旨記載されている。)、同原告は二、三日前から便秘が続いており、嘔吐、吐き気等の症状が認められたこと、《証拠略》によれば、急性虫垂炎は二〇歳前後の者に多く認められること、統計上急性腹症の基礎疾患の五〇パーセント以上が虫垂炎であること、同人は一三才の時に十二指腸潰瘍で通院したことがある外既往の腹部疾患がなかつたこと、虫垂炎であつても虫垂の位置によつては腹膜刺激症状の発現が見られないこともあること等の諸事実及び五月二日午前中の血液検査の結果同原告の白血球数が一万二〇〇〇と上昇し、明らかに腹膜内の炎症が進んでいる徴候を示している事実もあるのであるから、虫垂炎の典型的症状である腹膜刺激症状が欠けていたとはいえ、なお、これらの事情を総合判断し、右の時点において同原告の急性虫垂炎(とくに前記知見に照らせば定型的虫垂炎)を強く疑うべきであつたといわざるをえない。

これに対し、被告は、白血球数の増加は虫垂炎診断のひとつの資料にすぎないと主張するが、前掲各証拠によれば、右が診断上有力な資料であることは疑いなく、また、右認定は白血球数の増加の事実に加え、その他の所見を総合判断しているのであるから、被告の主張と相容れないものではない。また、白血球数の増加という点について、証人山本修三は、一万二〇〇〇という数字は特に著明な増加傾向を示すものとはいえない旨証言するが、《証拠略》には定型的虫垂炎においては白血球数が九〇〇〇から二万と増加する経過を辿るとの記述があり、また、《証拠略》には虫垂炎にあつては白血球数が一万以上のものが六八・七パーセントに達する旨記述されており、さらに、証人山本修三自身自らの著述である同乙第一〇号証掲載の「腹痛の鑑別診断」において、感染症にあつては白血球数は増加するが、一万を超えた時には腹部所見及び他の検査結果等をふまえて手術も考慮する必要がある旨述べているのであつて、これらに照らすと、右の山本証言はにわかに採用することはできない。

(三) 同医師が右の時点において原告耕二につき定型的虫垂炎を強く疑うべきであつたとするならば、急性虫垂炎の手術適応は前述のとおり、筋性防御、ブルンベルグ症状などの腹膜刺激症状の発現した時であると解されるのであるから、同医師は少なくとも右の時点において原告耕二につき医学的に厳密な意味での急性腹症と診断していたかどうかにかかわらず、同人のその後の病状の経過を特に慎重に観察して腹膜刺激症状の発現を見逃すことのないようにし、右症状の発現を認めた場合には速やかに開腹手術をなすべく万全の準備を講ずる義務があつたというべきである。そして、右腹膜刺激症状の有無は、触診、問診において把握されるべきものであるから、右の義務を尽したといえるためには、同医師においてその後原告耕二に対する触診、問診を頻繁に繰り返して右症状の発現及びその増悪の有無を見逃すことのないように細心の注意を払わなければならないものと解される。

しかるに、本件において、同医師は、五月二日午後一時の回診の後、翌朝二宮医師と勤務を交代するまでの間何ら原告耕二に対する経過観察も診察行為も行つていないのであるから、右の注意義務違反があつたものと認められる。

なお、これに対し、被告は、同医師が各種点滴、禁食及び疼痛時における看護婦への投薬指示等をしていたことをもつて経過観察として十分である旨主張し、《証拠略》中には右に副うものがある。しかしながら、本件事実関係の下において右の主張を採用するならば、同年五月二日午後一時の同医師の回診終了後に同医師が同人を触診、問診する機会としては、同人が激痛に耐えきれずナースコールをするか又はたまたま看護婦の巡視の際に同人が疼痛を訴えた場合で、かつ、看護婦において同医師から事前に指示されていた疼痛時の薬物投与だけでは奏功しない程度の痛みがあると判断してドクターコールをした場合に限られてしまうのであつて、右の場合以外に腹膜刺激症状が発現したときにはこれが結局看過され、同医師において手術適応を把握し得なくなるものといわざるを得ない。したがつて、右の見解は採用することができない。

(四) 次に、二宮医師にも右の述べた犬塚医師に要求されるような経過観察義務が認められるかについて検討するに、前記認定事実によれば、二宮医師が昭和六〇年五月三日午前九時ころ出勤し、入院患者のカルテ、看護記録に目を通し、その時点において原告耕二が入院時に急性虫垂炎を疑わせる諸症状を示していたこと及び犬塚医師により急性腹症と診断されたまま正確な病名を確定診断されていない事実、同月二日の入院時から同人の腹部について触診、問診がなされていない事実を認識するに至つたのであるから、二宮医師には、前記犬塚医師同様、原告耕二に腹膜刺激症状が発現していないか、又はその徴候はないか等を診察により確認しなければならない注意義務があつたものというべきである。しかるに、同医師は、同月三日午後一時に同人を診察するまで何ら診療行為をなしておらず、右の経過観察義務を怠つたものと認められる。

(五) そこで、次に、犬塚医師及び二宮医師の右の経過観察義務違反と原告耕二の腹膜炎発症との間に因果関係が認められるかについて検討する。

前記認定事実によれば、原告耕二の虫垂は回腸の間にもぐり込んでおり、仮りに同医師らにおいて右経過観察義務を尽していたとしても原告耕二は同年五月三日午後一時より前の段階で腹膜刺激症状を示すことはなかつたのではないかとも考える余地があるが、同月二日午後から翌三日一時までの間の同原告の症状として虫垂炎の典型的症状である嘔気や下腹部圧痛がみられること、同月二日午前における白血球数が一万二〇〇〇であるのに対し、翌三日午後一時におけるそれが一万四五〇〇であつて着実な腹膜内炎症の進行を認め得ること、同時刻における同人の所見は筋性防御とブルンベルグ症状がともに認められ、特に前者は強度(ツープラス)であつたことに徴すると同人が自制不能の激痛を訴えて腹膜刺激症状を呈した同日午後一時より前のいずれかの段階においても腹膜刺激症状が発現していた可能性は極めて高いというべきである。

しかしながら、本件においては全証拠を精査しても右腹膜刺激症状の発現はあくまで可能性にとどまるものであつて、その発現時期の明確な特定やさらに右が腹膜炎発症より前であつたことまで認めるに足る証拠がない。それゆえ、この点についての立証責任が原告にあるとの立場を厳格に貫くならば前記因果関係を否定することにならざるを得ないところである。

しかし、ひるがえつて考えるに、本件において前記因果関係の存否を決定する重要かつ唯一ともいうべき証拠資料は被告病院の右の医師ら自身による原告耕二の経過観察を記した諸記録等であつて、右は被告病院で保持するのが通常であるところ、同医師らは、右の経過観察義務を怠り、その結果右の証拠資料が作成されるに至らなかつたのであるから、これによつて被る不利益を全て原告らに甘受させ、その故に同医師ら及び被告が自己の責任を免れ得るものとするのは実質的公平の見地からみて妥当とはいい難い。そして、本件において原告らは原告耕二の腹膜刺激症状発現の可能性の存在自体は立証していること、右の証拠資料は医師として当然要求される最低限の義務を履行することにより容易に提出しうるものであること、立証責任分配の法理は究極的には当事者間の実質的公平をめざすものであることに鑑みるならば、本件では、被告において同年五月二日午後一時以降原告耕二が虫垂穿孔による腹膜炎となる以前に腹膜刺激症状が存在しなかつたこと又はこれが存在したとしても適切な措置を講ずることにより腹膜炎発症を防ぎ得なかつたことを証明しない限り、同医師らの右経過観察義務違反による過失責任を否定し得ないものと解するのが相当である。

しかるに、被告は、同月二日午後から翌三日午後一二時三〇分までの間の原告耕二の容態は、比較的落ちついており、腹部の痛みも軽度であつた旨主張し、《証拠略》中にはこれに副う部分もあるが、同証拠によれば、原告耕二が右の間頻繁に下腹部の圧痛を含む腹痛を訴えていること、同月二日二〇時には嘔気が持続していたこともまた認められるうえ、腹部の痛みの程度については看護婦の主観によるところが大きく、また右の各証拠によつては、その時点で腹部を触診した場合にどのような症状を把握し得るかは全く不明であるのだから、右各証拠をもつて前記因果関係を否定すべき事実の立証があつたと認めることはできず、他に右事実を認めるに足りる証拠はない。

そこで、前記因果関係が肯認され、同医師らの右の過失責任は免れ得ないというべきところ、同医師らの本件行為が被告の事業の執行につきなされたことは当事者間に争いがなく、結局、被告は、原告耕二の腹膜炎発症について同医師らの使用者としての責任を免れ得ないことになる。

四  損害

原告請求の損害につき以下に認定する損害は、本件不法行為と相当因果関係にある損害と認められる。

1  原告耕二につき 一五万七二五〇円

(一) 治療費 三万二二五〇円

原告耕二は、穿孔性虫垂炎による腹膜炎手術に要した費用を全額請求するが、同人は本来急性虫垂炎の手術自体は受けざるを得ない立場にあつたのであるから、右請求金額からこの金額を控除すべきであるところ、《証拠略》によれば、両手術の術式はあまり変わらず、したがつて手術費用も大差がないと認められ、また、原告耕二から右差額につき具体的主張立証もないから、右請求を認めることはできない。しかし、前記認定事実及び弁論の全趣旨によれば同人は遅くとも昭和六〇年五月三日に手術適応があつたこと、通常の虫垂炎手術の後要する通常の入院期間は一週間であると認められるから、同人の被つた損害は右の通常の入院期間を超える同月一一日から一五日まで五日間の入院費である三万二二五〇円であると認められる。

(二) 入院雑費 五〇〇〇円

入院雑費は一日一〇〇〇円が相当であるから右五日間の合計五〇〇〇円が損害と認められる。

(三) 付き添い看護費 二万円

付き添い看護費は一日四〇〇〇円が相当であるから、右五日間の合計二万円が損害と認められる。

(四) 慰謝料

手術が遅延し、腹膜炎となつたことによつて原告耕二が被つた精神的損害を慰謝するに足りる金員は、一〇万円が相当である。

2  原告譲二につき 九万二六〇〇円

(一) 休業補償費等 九万二六〇〇円

《証拠略》によれば、原告譲二は次男である同耕二の手術に付き添うためその経営する寿司店を同年五月一一日及び一二日の二日間休業したことによる逸失利益六万六六〇〇円、右期間の従業員への休業補償費一万四〇〇〇円並びにアルバイトに対する賃金一万二〇〇〇円の損害を受けたことが認められる。

(二) 交通費についてはこれを認めるに足りる証拠はない。《証拠略》によれば、原告譲二は同耕二の虫垂炎手術の連絡を受けて上京するための準備をしていたところ、腹膜炎手術をする旨の連絡をさらに受けたにすぎないことが認められるから、原告譲二が支出した航空運賃と腹膜炎手術との間に因果関係はない。また、原告譲二が訴外林田桂智のために支出した費用は本件手術と相当因果関係にあるものと認めるに足りる証拠はなく、上京した際の交通費のうち、本件手術に起因する金額の特定、立証がないからこれも認めることはできない。

(三) 通信費についても、急性虫垂炎の手術であれば本件通信費が生じなかつたであろうことを認めるに足りる証拠はなく、従つてこれを認めることはできない。

五  結論

以上の次第で、被告は、原告耕二に対し金一五万七二五〇円及びこれに対する弁済期の経過後である昭和六一年三月二三日から支払済みまで年五分の割合による遅延損害金、原告譲二に対し金九万二六〇〇円及びこれに対する右同日から支払済みまで右と同じ割合による遅延損害金を支払うべき義務があるというべきであり、原告らの本訴各請求は、右の限度で理由があるからこれを認容し、その余は失当であるからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九二条、九三条を、仮執行の宣言につき同法一九六条一項をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 久保内卓亜 裁判官 菊池 徹 裁判官 斉藤繁道)

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